午前10時過ぎ、私はホテルを出発し、念願の墓参りに向かいました。
まずはバールで朝食を。ひそかに緊張していたのですが、ちゃんと挨拶し、コルネットとスプレムータ(生ジュース)をおいしくいただき、最後にチップを置いて出ることができました。もうそんな年でもなかろうに、バールのおじさんは私を「シニョリーナ」と呼び、とてもにこやかに迎えてくれました。ほとんど対人恐怖症じみたところもある私ですが、やっぱり旅が楽しくなりますね、ほんのちょっとの時間であれ、こういう出会いに恵まれると。
そのあとは、まっすぐアウグストゥス霊廟へ向かいました。前回も訪れていたので、迷わなかったです。その場所には、アウグストゥスからトライアヌスまでの皇帝(記録抹殺刑を受けた人を除く)とその一族が眠っています。
しばし手を合わせ、そしてもしも同じ目的で訪れているらしくて、日本語か英語が通じそうな方がいたら思いきって話しかけてみようか・・・そんなことを考えながらそこに着くと、目にしたのは予想だにしなかった光景でした。
アウグストゥス霊廟が、開いていたのです。
お墓の扉が、開放されている。信じられなかった! 通常は、周りを囲む柵越しに眺めるしかないのです。前回訪れた時もそうで、トレビの泉などと違い、わりと閑散としていました。
それが開放されていて、しかも中に人が入っていく・・・!
どういうことなのか、すぐに察しはつきました。今日だからです。今日がアウグストゥス帝の2000年目の命日だから、特別に開いているのです!
私はすぐさま外柵の門に向かいました。そこでは係員のおじさんがいて、どうも事前に予約していた方のみ、中に入れていたようでした。
まだそうとも気づかなかった私は、なんとかイタリア語で訪ねたのです、入れませんか、と。観光客慣れしたイタリアの方々は、こちらのイタリア語がつたないとわかると英語を話してくれることも多いのですが、このおじさんはもっぱらイタリア語しか話されませんでした。
それでも私は聞き取りました、13:30と。そしておじさんは、私の名前を手持ちの名簿の下に書き留めてくれたのです。
このときの私の興奮と言ったらありませんでした。なんという幸運!! 2000年目にに訪ねて来て本当によかった! 私はなんて幸せ者なんだろう、と。
胸を躍り狂わせながら、私はそれから時間をつぶしたのでした。果物を買って食べたり、「平和の祭壇」を再訪したり。
「平和の祭壇」は、時間つぶしでなくとも再訪したでしょう。殊に私のような、ユリウス=クラウディウス朝を愛好する者にしてみれば、何度でも来て、いつまでもいたいと思わせる場所です。絵心があれば、ティベリウス帝の彫刻をスケッチしたかったです。それができるくらい、人も多すぎず、ゆっくり快適に見学できる場所です。前回来たときになかった展示で目立ったものは、「平和の祭壇」に登場する人物に彩色を施したパネルでした。
自分で想像するのも楽しいですが、だれかのイメージした作品を見るのもわくわくしますね。そう言えば古代ローマの彫刻も、制作当時は多くが彩色が施されていたと言われています。どこでだか思い出せませんが、アウグストゥスの妻リヴィアの彫刻の頭部には、赤味のある茶色の塗料が付着していたと読んだことがあったように思います。アウグストゥスは、スエトニウスによれば淡い金髪だったと書かれていますが、これはローマ人にはきっと珍しい髪色だったのでしょうね。
そんなふうにかなり楽しみながら、時間をつぶし、いざドキドキいそいそと霊廟横の門に戻りました。そうしたら同じようにおじさんがいて、厳しい顔でおっしゃったのです。
「もう終わりだ。これ以上はない」
見れば、霊廟内を見学していた参拝客が、一人また一人と出てきます。私がどれほど取り乱したか。
なにが起こったのでしょう。おそらく私は13:30という数字だけを聞き取り、その後に続く(イタリア語なら前につく)「まで」という言葉を聞き逃したのです。つまり、霊廟内の見学は13:30までで終わり。私は13:30分まで、門の前で待ち続けているべきだったのです。それでも予約されていた方が優先だったから、入れたかどうかはわかりませんが。
このときの落胆といったら、もう人生最大級だったかもしれません。とにかくその日はそこまでに考えて落ち込みました。イタリア語をもっとしっかり勉強しておくんだったとこのときほど後悔したことはありません。
それでも私はなんとか食い下がったのです。なにしろまだ真昼間です。もう一回くらい、参拝客を入れてくれる時間がないのかと。
しかし、やはりだめなものはだめでした。
私はその後も午後遅くまで、未練がましく霊廟周辺をうろついていました。おじさんと霊廟最後の参拝客が楽しげにお話しているのを、それはそれはうらやましく眺めながら。
そして、心では悔しさに涙しながら、当初の予定どおり柵越しに、ひっそりとアウグストゥスの霊廟へ向かい手を合わせてきたのです。
だいぶあとになってから、思いました。幸運に恵まれようと、やはり私は霊廟に入るべきではなかったと。畏れ多いことではないですか。ぶらりと訪れた、ミーハーなただの一素人ローマファンが、墓参りの作法も(日本式でさえ)に知らないのに、ふさわしい格好もしていないのに、あの場所に立ち入るのはよくなかった。そんな資格はないだろう、と。
けれどもあの日は、それはもうどうしようもなくへこんだものです。
この日は、以前の記事に書いた、携帯電話のトラブルに初めて見舞われた日でもありました。がっくり肩落とし、とぼとぼと霊廟を跡にしてまもなくのことです。踏んだり蹴ったりとはこのことでした、まったく。
その後、日暮れ前のフォロ・ロマーノを歩きもしたのですが、まあ疲れたこと、意気消沈していたこと。日本人の観光客も大勢いたように見えましたが、私だけくら~い雰囲気をかもしだしている気がして、ますます落ち込んだものです。
追い打ちをかけたのが、その日の夕食時の出来事でした。店員さんとコミュニケーションをとる元気がなかった私は、テルミニ駅のセルフサービスレストランで食事したのですが(ローマは深夜0時まで営業するスーパーマーケットもあり、対人恐怖症気味の観光客にも優しい都市です)、そこでそう、開いている霊廟のニュースが放送されていたのですね。あの最後の参拝客のインタビューが流されていたわけですね。
料理の味もなにもわからなくなりましたよ、ええ。
事実上の旅の初日が、これでした。もう旅を続けられないかと思いました。
けれども翌日、私は気力をふりしぼってローマを飛び出し、一路オスティアの遺跡を目指すことになります。
帰国後、イタリア語の先生から伺ったのですが、霊廟は今回のような節目の日に、開けられることがあるそうです。
・・・もしも23年後、3月16日、ティベリウス帝の命日――そのときまで私が相変わらず古代ローマファンで、愛することをやめずにいて、海外を旅できる状況にいたら、あの場所へ足を踏み入れる資格があるでしょうか・・・?
自らの愛と意志に賭けることになりそうです。
とにかく今は、8月19日に私があの場所を訪問することを許してくださった色々な方々と、恵まれた幸運に、ただ感謝するのみです。
写真がその開いていた霊廟です。この場所に、しばし独りきりで座っていました。・・・そういえば霊廟の入場者以外は、ほとんど人がいませんでした。