ご生誕2062年目でよろしい?? わたくし間違っていません??
推敲は……第一次は終わりました。。(予定は第三次まで)
さて本日は、あのアウグストゥス帝の彫像で最も有名と言っていい「プリマ・ポルタのアウグストゥス」にまつわるお話。
あの彫像のロリカ・ムスクラと呼ばれる甲冑には、前20年5月12日、ローマがクラッススの敗北以来奪われていた軍旗を、パルティア側から返還される場面が描かれています。これはもう断定していい史実のようです。
問題は、ええ、三作目の執筆中、つまりごく最近になって知ったのですけど、胸当てど真ん中に描かれている人物二人、一人は髭を生やしているのでパルティア人で、軍旗を今まさにローマ側に返そうとしているところ。
そして受け取ろうとしているローマ人のほうが、当時のティベリウス帝ご本人であるという説を知ったわけです。マジっすか!!??(画像超拡大)
…………いや、この画像からはなんとも判別できん(※注 ど素人)ただ、少なくとも胸当てを身につけているところのアウグストゥス帝本人には見えないんですよね。だったらもっと顔を似せるはず。
この人物がティベリウスであるかどうかは、研究者のあいだでも意見が分かれ、断定はなされていないようです。英語版wikiのページではほぼティベリウス断定で書かれていましたが。
ただ、少なくともアウグストゥスに見えない。
じゃあ、だれ?
この人物の足下に狼が描かれているし、ローマ人の始祖とか、ローマ人の象徴みたいな感じで描かれた人物なのかもしれません。つまりどこのどなたというわけではない。
しかしそうだとしても、ある程度モデルがいなくては描けないのでは、とも思う。
そうなるとアウグストゥスでなければ、ティベリウスが最有力候補となるのは、確かに、とはなります。
ただ、「なんでアウグストゥスが当時わざわざシリアまで出向いたのに、軍旗奪還という外交上最大の栄誉を継子に譲るのか」なとどいった異論もあります。まぁ、甲冑そのものを身に着けて石像になっておられるのは他でもないアウグストゥス帝なのですが。
「あれがティベリウスなら、アウグストゥスってば継子大好きじゃん」
「いや、大好きなわけないから、あれはだれでもないだろう」
そもそもこの「プリマ・ポルタのアウグストゥス」像はいつ、だれが作らせたのか。
もちろん前20年以降ということになります。
そして、見つかったのはプリマ・ポルタ。アウグストゥスの妻リヴィアの別荘があった場所です。
……リヴィアのためなら、胸当てに思いっきり彼女の長男を描いた、若くてイケメンな夫の像を置いてあげたとしてもおかしくはない……?
しかしこの像、アウグストゥスが裸足であることにも注目されます。当時裸体や裸足で作られるのは神々とされていました。つまりこのアウグストゥス像は、彼が神格化された後、すなわち彼の死後に製作されたことになるのか。
この疑問に対し、リヴィアの別荘にあった像はオリジナルでなくコピーであったという説があるようです。つまりオリジナルはアウグストゥスの生前、おそらく前20年からさほど時間を置かずに作られた。そして裸足ではなかったということか。
まぁ、生前でも勝手に彼を神にして、像を作る人はあちこちにいらっしゃったようですけども。神格化を拒否し続けたティベリウスでさえ、裸体像が残っています。そもそもエジプトでは「神の子」ということにしていたのでしょう、お二方とも。
パルティアとの平和協定と軍旗奪還は、地中海世界じゅうに宣伝すべき偉大な成果であり、偉大な成果にしなければならないと、アウグストゥスは考えたに違いありません。そうなるとこのアウグストゥス像が、妻リヴィアの私用というだけだったとはちょっと考えにくい。たぶんあちこちに同じ像が置かれたのでは。
プリマ・ポルタのものが「複製像」だとしたら、リヴィアかティベリウスがアウグストゥスの死後に置くことにしたのかもしれない。パルティアと交渉当時のアウグストゥスは40歳を過ぎていましたが、もっと若く見える。やっぱりいちばんイケメンで輝いていた時を彫らせたんでしょうね…。
ところでいずれにしろ、プリマ・ポルタの像がリヴィアのために置かれたとなると、やはり胸当ての人物は彼女の息子である可能性が高まります。
しかしなおやはり「アウグストゥスがそこまでするか?」という疑問は残ります。
というのも話は戻りますが──これは推敲中の不肖わたくしの三作目にも関わることなんですけど──アウグストゥスは前20年、シリアまで行った後、パルティアとの軍旗返還の現場に直接赴かなかったのか?
塩野先生の著書では、ティベリウスがユーフラテス川に浮かぶ島で、パルティア側の代表者から軍旗を受け取ったとされています。アウグストゥスがその場にいたかいなかったかは不明ですが、書かれ方からしておそらくいなかったという説であるようです。
ところでこの前後、ティベリウスはアルメニアに軍を率いて向かい、かの国に新王を据えています。
「前後」というのが問題で、実はこれも「アルメニア行きが先、パルティア行きが後」説と、「パルティア行きが先で、アルメニア行きが後」説があります。
塩野先生は前者の説。すなわちアルメニアがローマ側に屈したから、パルティアがローマとの平和交渉に応じるようになった、と。また、スエトニウスが「ローマ皇帝伝」(国原吉之助訳)でさらりと記述しています。「パルティアはアウグストゥスがアルメニアの宗主権を主張するとあっさり譲歩」し、軍旗を返還した、と。
ところがカッシウス・ディオは後者の説「パルティア行きが先」であるように記述しています。こうなるとつまり「親分格パルティアが弱腰でローマに軍旗を返したから、アルメニアもローマ軍に屈するしかなく、王の首を差し出した」という話になります。
パルティアがなぜ当時弱腰だったのかは納得いかないところですが、とはいえかの国とローマの交渉成立日が前20年5月12日だったことは、おそらく確定しています。
となると、これ……ティベリウスがアルメニアに軍を進めてからパルティア側との交渉に行く、とはかなりの強行スケジュールになります。まず行き道の小アジア(現トルコ)がかなりデカい。広大。さらにアルメニアの王都アルタクサタからユーフラテス川の交渉現場までも結構な距離でしょう。アルメニアも南国というわけではないから、冬に行軍したとは考えにくい。春を待ってからだとして、二ヶ月しかない。
いくらアルメニアがあっさり王の首を差し出して王都を開け放ったとはいえ、キツキツのスケジュールです。頑強に抵抗されていたらどうなっていたのでしょう。
まぁ、5月12日こそ、想定より早い交渉成立日だったのかもしれません。アウグストゥスにとっても。
順番はさておき、ティベリウスがアルメニアに軍を進め、パルティアとの平和交渉の場に臨んだことは、スエトニウスが書いています。ディオはティベリウスのパルティアとの交渉には触れていません。アウグストゥスが行ったこととしているようです。
ここで出てくるのが、かのティベリウス帝の大ファン、ウェレイウス・パテルクルス氏ですが、彼も(調子は違いますが)ディオと同じで、ティベリウスのアルメニア行きには(熱烈に)言及しても、パルティアとの交渉ではティベリウスを主語にしていません。
研究者の中には、このパテルクルスの沈黙から、「ティベリウスはパルティアとの交渉の現場にはいなかった。いたのはやはりアウグストゥスのほうだった」「いたとしてもこの後にアルメニアへ進軍したのだ」、したがって「プリマ・ポルタの像の胸当て部分に描かれた人物もティベリウスではない」と考えている方もいるようです。
だってパテルクルスなら大はしゃぎで書くに決まってんじゃん、パルティアとの交渉も……ということなのでしょう。
ただ、パテルクルス氏は早速その当時のアルメニア王の名前を間違えていらっしゃるみたいなので(それ、首切られた側の王様や! 新しい王様やないで!)、自分が生まれる前か生まれたばかりの頃の出来事は、割合さらっと適当に書いたのかもしれません。それにティベリウスがパルティアとの交渉現場にいたとしても、その場を実現させた功績とはアウグストゥスのものなので、ティベリウスの手柄として強調して書くわけにはいかなかったのかもしれません。ティベリウスが軍を率いて勝利した、という話とは別に。
そもそもパテルクルスと、スエトニウスやディオとは、著作へのスタンスが違う気がします。
こうして、はい、「プリマ・ポルタのアウグストゥス」からだいぶつらつらと書いてしまいましたが、不肖わたくしの実に個人的な都合としては「もうなにが史実だかわかりませんわ、コンチクショウ! ありがとう!」だったと思います(??)
研究者の方々が調べてわからないんだったら、わたくしごときがどうしようもない。
しかしそれでも小説を書くというのなら、「自分の考え」というやつは立てておかなければならないわけで。
それは、三作目の中で果たしてどうなっていることやら……まぁ、出来上がったら──ということで、できるだけ早く仕上げますっ(冷汗&逃避)
贅沢を言うな。古代ローマとは、本当にかなりの史料が残っていて、研究・発掘も進んでいる、恵まれている時代だと思います。2000年以上も昔だっていうのに。