A.Banana.S

古代ローマ、NACSさん、ドートマンダーにパーカー、西武ライオンズ、FEプレイ日記(似非)・・・好きなことをぽつぽつと。

捧げものの古代ローマ短編(アグユリ?)(ティベヴィプ?)

 

以下ですが、本年2月に、いつもいっぱいいただいてばかりの御礼(と、こちらが新年のご挨拶も果たさなかったお詫び)に少しでもなればと思って書いた、短編です。

 

拙著、古代ローマ歴史フィクションの三作目『世界の果てで、永遠の友に』の……あー、えー、まぁ、その後の時系列で書いた話です(前19年の設定)。

 

捧げたものではありますが、「こぼれ話」として本ブログにも掲載いたします。

 

 

※※※※※

 センティウス・サトゥルニヌスとルクレティウス・ヴェスピッロが執政官の年の八月下旬(前十九年)、ティベリウスは首都ローマに戻った。先に従者を行かせていたが、ただ一人馬を駆っただけの、ひっそりとした帰還だった。二年余りも留守にしていた。

 本当はもう少し後で、継父アウグストゥスとともに帰国する予定だったのだが、ひと足早く戻ってしまった。ティベリウスとしては、これほど長く留守にすることになるとは、遠征に出た当初は予想していなかった。けれどもそのことに不満があるわけではない。むしろもっと長く外地にいてもよかったと感じているくらいだ。それくらい充実した日々だった。

 アルメニアへの軍事遠征、続くパルティアとの和平協定を終えてから、もう一年が過ぎていた。つまり、ティベリウスアウグストゥスの名代として果たさねばならなかった役目は、その時点で済ませたはずだった。だからすぐさま帰国することもできなくはなかった。

 そうであるのにティベリウスは、その年の夏にはロードス島の教師テオドルスの下で学問に没頭し、あるいは友人たちと東方世界やギリシアのあちこちを歩いてまわり、凝りもせず旅と冒険を満喫したのだった。それになによりもまず、継父を一人東方世界に残しておきたくはなかった。かつてマルクス・アントニウスと女王クレオパトラを打倒した後のように、継父は今また東方秩序の再編に取りかかっていた。アルメニアに親ローマ派の王を据え、パルティアと和平を結んだからこそできることだった。ティベリウスは十数年前のあの日々よりももっと公に、かつ一人前の男に成長した心身をもって、継父の傍らで統治を学んだ。補佐といえるほどの仕事ができたかはわからないが、頼まれることがあればなんでも取り組み、役に立とうと努めた。

 そういうわけでティベリウスは、首都をあとにしてから二年余りが過ぎていたことなど忘れて過ごしていた。継父は今はギリシア本土にいるか、もしかしたらローマ本土の玄関口であるブリンディジに入港したかもしれない。いずれにせよ、ティベリウスがひと足早く帰途についた理由は、もう継父の帰国も間近であるためと、もう一つ、友人ルキリウス・ロングスの祖父の具合が思わしくないという知らせを受けたためだった。ロングス爺はもう八十五歳であり、とんでもない長生きをしていた。それでルキリウスも、知らせにさして動揺するでもなく、覚悟もしていたし、でもまぁ、間に合うんなら間に合うに越したことはないか……とつぶやきながら、故郷であるポッツォーリ行きの船に乗った。ティベリウスもそれに同乗し、ポッツォーリでルキリウスと別れて後、一人首都へ馬を駆ったのだった。

 継父が帰国する前に、首都の状況をこの目で見ておくのも悪くはないだろう。それに直接会って、報告やらつもる話やらをたっぷりとしたい人もいる。

 ティベリウスの荷物は、主に継父の右腕であり、現在は首都の実質の最高責任者であるマルクス・アグリッパへの手紙、それに彼の家族への土産物だった。

 クイリナーレの丘の麓にあるアグリッパ邸に到着したのは、首都がいよいよ夕焼けに染まりはじめた時間だった。その邸宅の門を前に、ティベリウスはしばし目をしばたたいていた。

 ひょっとして家を間違えたのだろうかと思った。否、アグリッパ邸に来るのは久しぶりだが、初めてではない。初めてではないのだが、何かが違う。何がどう違うのかはまだわからない。だが何か妙な気がする。家のたたずまいというのか、雰囲気というのか。それになんとはなく門の向こう側から漂ってくる香りもまた、ティベリウスにはなじみのないものに感じられた。特段鼻が敏感であるというわけではないが、ティベリウスの知るアグリッパの香りとは、いつもさんさんと照りつける太陽を思い出させる。そしてその下でじっくりと恵みを蓄える大地と、そこで汗を流して生き生きと働く男たちの誇らしげな顔を連想させる。

 ところが、今目の前にしている邸宅のたたずまいからは、華やかさとでも言うべきなにか異質な──あくまでティベリウスが思うアグリッパからは異質であるなにかが、漂ってくる気がするのだった。

 それとも、二年ぶりに訪れた自分の感覚がどこかでおかしくなってしまっているのだろうか。

「いらっしゃい!」

  と、途端に門が開け放たれる。否、ティベリウスが門番に取次ぎを求めていたので、それに応えられるのは驚くべきことではない。それでもティベリウスが一時面喰らってしまったのは、聞いたことのない声が耳に飛び込んできたからだった。

 聞いたことのない、女人の声だった。「おかえりなさい、ティベリウス。久しぶりね!」

  その声の主である人が両腕を広げて現れてからも、ティベリウスは目をしばたたくのをやめられなかった。立ちつくしたきり、動けもしなかった。

  女人のほうは、まるでうっとりと目をうるませ、頬を紅潮させてさえ見えた。ゆるりと結い上げられたつややかな髪。その数本がこぼれ出て、ぷっくりとした桃色の唇をかすめている。まとうストラはきらめきながら薄く、体の線を隠そうともしていない。豊かな胸元も、ゆったりと膨れた腹部も。

「どうしたの、ティベリウス?」女人が微笑みながら、小首をかしげた。「あたしがわからないの?」

  ティベリウスはなおも沈黙していた。けれどもどうやら間違ってはいないようだった。この女人は知っている女人で、同じ屋根の下に暮らしていたことさえあったが、聞いたことがない声を、聞いたことがない調子で聞かせていた。見たことがないたたずまいを見せてもいた。

「……ユリアか?」

  ティベリウスはようやく口にした。ユリアはにんまりと笑った。

「もうっ、だれだと思ったのよ?」

  ティベリウスはこの女人のこんな顔を初めて見た。一応義理の妹であるのだが。

  気づいたときには、ティベリウスはユリアに腕を引かれながら、邸宅の敷地へ入っていた。本当に、触れられるばかりか腕を組まれてさえいると気づいたときには、思わずぎょっと飛びのきさえした。

 短くはない縁のある娘であるが、触れられた記憶など一切なかった。ティベリウスから触れたことだってなかった。

 ユリアはそれでもティベリウスの腕を離さなかった。それを自分の豊かな胸元に抱き込みながら、なおうっとりとうるんだ目で見上げてくるのだった。

「ねぇ、ティベリウス。あたし、変わったかしら? 綺麗になったかしら? あなたも一段とたくましくなったわね」

  と、軽くティベリウスの胸を叩くことまでする。それが重い衝撃だったわけではないが、ティベリウスは眩暈を覚える心地さえした。

「……いったいどうしたんだ?」

  口を突いて出たのは、そんな間の抜けた疑問だった。

「なにがあった?」

  これはユリアに見えるが、ユリアではない。ティベリウスの知るユリアとは、こんな女人ではない。明るく陽気に声を張るなどできない。気やすく男に触れることも、声をかけることもできない。青白くて、痩せぎすで、縮こまった体をして、心ではいつも自分を哀れんで、めそめそと泣き言をこぼして、なぐさめてもなにをしても「でも ……」「だって……」とくり返していた、自信の持てない、気弱な幼い娘。

  そんなユリアはいったいどこへいったのだ?

  うふふ、とユリアは、また見たことのない含み笑いをするのだった。「なぁーんにもないわ。ここでかわいい奥さんになりたがっていただけ」

「そ、そうか……」

  我ながらまた間抜けな返事だと、ティベリウスは思った。だが確かに、ユリアがアグリッパの妻となってからこの邸宅を訪れるのは初めてだったと気づいた。

  そうなると、この邸宅のなんとはなしの変化とは、そのままユリアの変化であるというわけか。つまり、ユリアの変化がこの邸宅を変化させたのか。

 まったくなんとはなしどころではなかった。

 それに──。

 不躾とは思いつつ、ティベリウスは目線をさらに下げざるを得なかった。

「懐妊しているのか?」

「そうよ! 二人目!」

 ユリアはぱっと顔を輝かせた。この表情は見覚えがないわけではなかった。アグリッパとの結婚式で見せた笑顔によく似ていた。

 ユリアは我が膨れた腹をぽんっと叩いて見せた。あまり品のある仕草とは言えなかったが、親しみやすさはあるのだろう。

「今度は女の子がほしいわ! でもお父様は、男の子がいいっておっしゃるんでしょうけど」

  お父様とは、今頃ギリシア本土かどこかにいるはずのアウグストゥスのことだ。ユリアはかの人のただ一人の実子であるのだ。「……君の子息は……ガイウスは健やかでいるのか?」

  ティベリウスは思い至ったので、とりあえず尋ねてみた。ガイウスとは去年ユリアが出産したアグリッパ家の長男だ。

「もちろんよ。もうお父様への手紙には何度も書いたのだけれどね」  と、ユリアは今度は明白に不満げな顔を作る。

「こんなにお父様から手紙をもらったことなんてないわ。むしろ出産するまでは一切れもなかったんじゃないかしら、手紙なんて。もううんざりするほど届くのよ。それで中身は全部『ガイウスは元気か?』ばっかり」

 ガイウスとはアウグストゥスにとって待望の初孫であるのだ。そして今や世界でただ一人、自分の血を継いでいる男児でもあった。

 今ユリアの胎内にいる子が男児であれば、二人になるが。

「もうちょっとあたしのことも気にかけてくれていいと思わない? でもまぁ、いいの。今に始まったことじゃないし。これでも前よりものすごく気にかけてくれるようになったくらいだし。手紙でだけど」  ティベリウスは未だに眩暈を覚えていた。ユリアとはこんなによくしゃべる女であっただろうか。

「お父様も、あなたのお母様も、まだ帰ってこないのよね?」  と、見上げて尋ねてくる。ティベリウスはかろうじてうなずいてから、「本年じゅうには──」とつぶやくように言う。

「帰ってこなくていいわ!」

  信じられないほどの大きく響く声を発し、ユリアはティベリウスの腕をぶんと振る。そして大げさにため息までついてみせる。「そのほうがあたしもずっとのびのびできる。面倒な気も遣わなくていい。窮屈な思いをしなくてすむ。どっか遠くで、お元気で過ごしてくれてればいいのよ、夫婦仲良く」

  一応、ティベリウスの母親がアウグストゥスの妻であるのだが、ユリアはもう遠慮もしない。

  それからまたぱっと世にも輝く顔を見せた。

「ねぇ、わかる? あたしが帰ってきてほしい人は、今や世界でたった一人よ! ねぇ、ねぇ、だれだと思う?」

  ティベリウスは猛然と目をしばたたくばかりだった。そのただ一人とやらが、ユリアを大変貌させた張本人であるらしいことだけ、なんとか察していた。

「決まってるじゃない! あたしの旦那様よ!」ティベリウスの腕を引っこ抜かんばかりに引きながら、ユリアは叫んだ。それからしきりに跳ねるのだった。

「もうっ、ひどいわよね? あなたから今日には来るって連絡をもらっていたのに、あの人、急に水道のどこかで問題が起こったとかで、お昼には出かけちゃったのよ。陽が暮れるまでには戻るって言ってたんだけど、いつまで待たせる気なのかしら?」

「アグリッパ……」だいぶ遅ればせながら、ティベリウスはそこらじゅうをきょろきょろと見た。助けを求めるように。「アグリッパはいないのか……?」

「あなた、話聞いてた?」

  ユリアはじっとりと目を細くする。それから駄々をこねるように、またティベリウスの腕をぶんぶん振る。

「さっきあたしはまた使いを出したのよ。今日五度目よ。『すぐに帰ってこないと、あなたの可愛い奥さんはティベリウスと浮気をしてやるわ!』って」

「なに?」

  ティベリウスは思わず眼を剥く。

「馬鹿ね。冗談よ」

  ユリアはつんとすまし顔をする。こんな口の利き方も態度もできる女ではなかったはずだが。

「だって今のあなたと浮気したって、ぜーんぜん面白くなさそうなんだもの。奴隷たちが噂してたんだけど、あなたって人は、だれかがわざわざ呼んでくれた商売娘さんたちを何度も追い返したんですって? それじゃあ、まだまだ全然女というものの扱い方っていうか、愛し方を知らないだろうし、ひょっとして未だに童──」

「いったいなんの話をしてるんだ、お前は!」

  まったく信じられず、ティベリウスは声を荒らげていた。

  しかしユリアときたら、少しもこたえた様子がなかった。優越感にも見える陶酔したまなざしを向けてくるばかりだ。その先で、ティベリウスではなく別の人物をまるで見つめているようだ。

「でもお酒を飲んであなたと戯れてみたら、あの人もちょっとは妬いてくれるかしら? そして夜になったら、いつもよりもっと激しく愛してくれるのかしら?」

「ユリア、いい加減に──」

「でも、あの人ったら全然妬いてくれないの。なんでもユリアの好きにしていいよって。それに、ユリアはなにをしても可愛いよって。もうっ、大人の余裕っていうの? 悔しいったらないわ! あの人、あたしを子犬だとでも思っているのかしら?」

「あのな──」

  確かに子犬には近かった。だれかれ構わずキャンキャン吠えまくるが、ご主人が帰ってきたら全部を放り出してまっしぐらに飛びつきにいきそうな子犬だ。

  ただし、子犬は夜の愛し方云々の話はしない。

「あたしがこんなに愛してるのにーーっ!」ユリアはついに地団太を踏みはじめた。「どうして早く帰ってきてくれないのかしら!」

「ユリア……」ティベリウスは頭痛を覚え、実際に頭を押さえてしまっていた。「アグリッパがいないのなら、私はあとで出直す」

「なに言ってるの!」

  ユリアは信じられないとばかりに飛び上がる。未だティベリウスの腕を離さないまま。

「もうすぐ帰ってくるわよ! それまで待っていればいいでしょ?」

「いや、アグリッパが帰ったら呼んでくれ……」

「だめよ。そのあいだ、だれが旦那様のいないあたしのさみしさを埋めてくれるっていうの?」

「知らん」

「ガイウスのことも見ていってよ! ねぇ、とっても可愛い子なのよ。あの人によく似てる!」

「あとでいいだろう」

「あなたって人は──」ユリアがほとほと呆れ返るとばかりの顔をするが、そんな態度を取られる筋合いはないとティベリウスは思った。

  いや、あったのだ。今回ばかりは。

「なんて女というのをわからない人なの? あなた、自分の婚約者に挨拶もしないつもり?」

  ティベリウスはのけぞるほどにはっとなった。ようやく気配を感じて、見やると、列柱の脇にひっそりと、打ちひしがれたように立ちつくしてこちらを凝視しているアグリッパ家の長女がいた。

 ほとんど最悪と言っていい再会だった。

 

 

 

  アグリッパが帰宅するまでのあいだ、そして女主人ユリアが晩餐用だと言って衣装を変えたり髪や化粧を直したりするあいだ、ティベリウスはヴィプサーニアに色々と詫びた。八歳も上であるネロ家父長の立場は脇へ置いた。置くしかなかった。

  任務もあったとはいえ、二年も遠く東方で世界を満喫して過ごした。そのうえ帰ってくるや否や、彼女とさして年も変わらない義妹にまとわりつかれ、品のない話題で言い合いを演じていた。

  それにしてもヴィプサーニアは、二年もそんな継母のいる家で過ごしていたというのだろうか。まさかこの婚約者まで恐るべき変貌を遂げてしまったのだろうか。

  けれどもヴィプサーニアは、健気にも最初の衝撃から立ち直っていく様子だった。ティベリウスのぼそぼそと言い訳めいた詫び言を、とても真面目なうえに気遣わしげな様子で聞いていた。そしてしだいに、控えめながら瞳を輝かせていくのだった。

「ティベリ様……」

  十四歳になっていたヴィプサーニアは、今や喜ばしそうに体を小さく震わせていた。

「無事にお帰りになってうれしいです! お待ちしておりました!」 

 この時、ティベリウスはほとんど涙をこぼしそうになったとはだれにも言えた話ではない。

  ユリアの華やかさに比べれば素朴であるとするしかなかったが、ヴィプサーニアはティベリウスの知るヴィプサーニアのままでいてくれた。

  よくぞ──。

「ちょっと、ティベリウス!」

 化粧直しの途中であろうに、ユリアが自室から声を張ってくる。

「ちゃんとヴィプサーニアに声をかけてあげたの? 可愛くなったとか、見違えるほど女らしくなったとか?」

  そういう話をするだけの余裕を強奪した張本人がどの口で言うか、とティベリウスは思った。元々そういう話に気をまわせる性格ではないことは、ティベリウス当人ばかりか、その誠実な婚約者までもわかっていることだったが。

 

 

 

「おおおっ、坊ちゃん! お帰りなさい! いやはや、まあまあ、すっかり将軍の顔になりましたな!」

  アグリッパが仕事を終えて帰宅してから、晩餐会が開かれた。主人アグリッパとティベリウス、それにユリアとヴィプサーニアだけの、ささやかではあるが、季節の食材と女主人の容姿と身なりが豪華な席ではあった。ティベリウスは緊張で縮こまっているようなヴィプサーニアと並び、同じようにほとんど身をすくませていた。アグリッパとゆっくり話したいことはたくさんあったのだが。

  まぁ、晩餐の席とは、仕事の話をしないものではあれど……。

「いやぁよ、あなた。お父様が帰ってきたら、今度はあなたがどこかへ遠征に出てしまうんじゃなぁい?」

  食事もそこそこに、ユリアはアグリッパにしなだれかかりっぱなしだった。

「そうかもな」

 そんな若妻へ、アグリッパは普段の気さくさそのままにこにこと応じている。慣れているとばかりに。

「けれどもこちらの坊ちゃ──いや、ティベリウスが活躍してくれたおかげで、私はもう二年余りも首都でゆっくりさせていただいた。妻と子どもたちに囲まれて、たっぷり英気を養ってな。だからカエサルの命令とあらば、いつでも喜んで出かける所存──」

「だめ!」若妻はわっしと夫にしがみつく。「あたしがさみしくて死んでしまうわ!」

「それは困るな、ユリア。であれば、途中までは一緒に来てもいいんだよ? ガリアであればリヨンまで。ヒスパニアであればタラゴーナまで」

「いやよぅ。外国は怖いわ。野蛮な男たちがいっぱいいるんだわ。あたし、襲われちゃうんだわ」

「そうはならないように、私がお守りするよ」

「そんなこと言って、また道路修理だ水道建設だって、何日も留守にするくせにぃ」

「ははは。ユリアにはすっかりお見通しだな」

「今ここにいてだって、朝から夕暮れまでほとんど毎日出かけているくせにぃ」

「家で君が待っていてくれると思うと、仕事のし甲斐があるというものだよ」

「あたしはさみしいのよ! 毎日あなたが帰ってくるまで泣いているのよ!」

「それは困ったな、奥さん。君はいつもガイウスと一緒に太陽のような笑顔で私を迎えてくれるから、気づかなかったよ」

「な、泣いてるんだから……」

「いつも家を守って、ガイウスをしかと育ててくれて、感謝しているよ」

「浮気してやるわ!」

  びくともしないアグリッパの笑顔めがけ、ユリアは言い放つのだった。

「あなたが仕事でいないあいだ、他所から男を呼んでやるわ! あたしにさみしい思いをさせるあなたが悪いのよ!」

「いやはや、だとしたらどんな男だろう? 乱暴者では大変だから、そんな危ない真似はやめてほしいよ」

「……もしかしたら家の中にいる男かもしれないわ。奴隷のあれとかこれとか」

「うーん、我が家には懐妊中の奥さんに悪いことをするような者はいないと思うがね」

「懐妊中だから、遠慮なくやるのよ! やりたい放題よ!」

  ティベリウスとヴィプサーニアは同時に食べ物をむせた。だがアグリッパは顔色一つ変えない。ただひたすらに優しく妻に言い聞かせるだけだ。

「ユリア、体に障るから無茶なことはしないでくれ」

「だったら早く帰ってきて!」

「そう努めるよ」

「あたし、ヴィプサーニアと違って、石像の夫で満足することなんてできないんだから!」

  ヴィプサーニアが椅子から飛び上がった。ティベリウスもまたひっくり返りそうになった。

  この家には確かに、ティベリウスの石像が置かれていた。十歳当時のそれだが。

「石像のあなたの体は全然あったかくない……。触っても楽しくない……」ユリアがじめじめと言った。  ティベリウスは背中に嫌な汗が吹き出すのを感じた。どんどん聞いてはいけない方向へ話が向かっているように感じられた。横のヴィプサーニアにいたっては泣き出しそうな気配さえうかがえるのは気のせいだろうか。

「ユリア、石像でも残暑が厳しい今の時期は、触ると火傷をするくらい熱いことがある。よく気をつけるんだよ。銅像であればなおさらだ」

 アグリッパはなんでこんな台詞を返せるのだろうか。

「あなたは馬鹿?」

  ユリアはとうとう夫の肩をぽかぽかと叩きはじめる。

「今度、このあいだ画家が描いていった、あの体位を実行してやるわ。お化粧台の横の絵よ。石像の腕も足もあれももげるに違いない わ! 粉々だわ!」

  なんだって、なんだって──とティベリウスとヴィプサーニアは絶句する。

  確かにこの家には、つまり男女が夫婦の営みとやらを致しているらしき絵画が、敷地内の私室の壁に、飾られたり直接描かれたりなどしていた。立派な邸宅を持つような家では、その種の作品を飾ることが優美であるらしいと話に聞いたことがあるが、それにしても以前にこの家を訪れた時には、一作も目にもつかなかったものだ。

「そうなったらまた新しいのを作るしかないか」アグリッパはなお平然と微笑むばかりだ。「この四十四歳にもなるおじさんの像になってしまうのが、少々悲しいがね。できればもっと若い姿のを残しておきたかった。ガイウスや、これから生まれてくる子のためにも。少しでも見栄えがましな父親を見てもらいたいものだった」

「あなたは今がいちばんかっこいいのよ」ユリアがためらいもなく断言する。「新しい石像をこしらえても、外に出さないわ。ほかのどの女にも見せてやらないわ」

「ありがとう、ユリア」

「……そういう話じゃないの!」

  ほとんど夫の背に乗り上がって、ユリアは揺さぶっていた。

  いったい自分たちはなにを見せられているんだろうとティベリウスは途方に暮れる心地だったが、きっとヴィプサーニアも同じだろう。

  彼女は、この家で二年もこうした光景を見せられていたというのか……。

「もう眠いわ」

  終わらないように思われた夫婦の睦まじい会話も、とうとう区切りをつけることにしたようだ。ずいぶん際どい区切りだが。

「ねぇ、あなた? 一緒に寝ましょう、あなた。愛してちょうだい、あなた……」

「悪いけど、ユリア、先に休んでいてくれないか? ガイウスに接吻を忘れずにね。私は坊ちゃんとまだ話したいことが──」

「あたし、あなたが抱いてくれないと眠れないんだから!」少しも眠くなさそうに叫んだ。「まず優しく頭をなでてくれて、それから急に激しい感じにして、思いっきり──」 

 この宴席で、ユリアは葡萄酒を口にしてはいないはずだった。妊娠中だからと止められていたはずだ。それなのに酔ってでもいなければ到底口にできないような「具体的な」話を、次から次へと聞かせるし、求めるのだった。ティベリウスは耳を塞いでしまいたかったが、礼儀からか遠慮からか、ただ認めたくなかったからか、かろうじてこらえた。

  やがてユリアは奴隷たちの手で、半ば強引に寝室へと連れ出されていった。アグリッパはこの食堂の出入り口まで妻を見送り、「ゆっくり休んでおくれ」と、その額にねんごろに接吻をしてから、食卓へ戻ってきた。

「さてと、坊ちゃん」

  まるで何事もなかったかのように、アグリッパは穏やかに笑いながらティベリウスに向き直った。

「きっとまた数日内にカエサルの下へ引き返すのだろう? 見てのとおり、ユリアも子どもたちも健勝でいると伝えてもらえるとありがたい」

「……はい」

「ではでは、さてさて、どの土産話から聞かせていただこうか」

「アグリッパ」

  思い立って背筋を伸ばしてから、ティベリウスは深く頭を下げた。

「どうかご息女を私にください」

「ええ、それはもちろん」

  きょとんとしたのは一瞬で、アグリッパは満面の笑みになる。「ずっと昔から約束をいただいていた。今や君も二十二歳、ヴィプサーニアも十四歳。カエサルとリヴィア殿が戻られ次第、待ちに待った挙式を──」

「いえ、今すぐ」ティベリウスは迫っていた。「どうか今すぐ。明日にでも」

「えっ?」

  これ以上この家にヴィプサーニアを置いてなるものかという突然の信念で、ティベリウスは結果を急いだ。もはや手遅れであるかもしれないなどとは、考えたくもなかった。

  いったい自分はなぜ二年間も遊び惚けていたのか。

  結局ティベリウスの並々ならぬ決意にもかかわらず、婚姻はこの年の暮れまで延期となった。ティベリウスは一家の長であるが、さすがに実母も継父も健在で近くにいるのに、待たずに挙式をするわけにもいかず。

  その少し前、ユリアは無事に女児を出産した。そして早くも次の子を授かりたいんだから今夜も今夜も──とアグリッパをせかしているらしい。さすがにまだ止められているそうだが。

  正直、あの日義父アグリッパの家を訪れて以来、ティベリウスは夫婦とはなにかわからなくなっている。それまでもわかっていたわけではまったくないが、ほかの人たちがそうであるように、なんとかなるようになると漠然と考えていたのだった。

  ユリアをあのように変貌させたのは、間違いなくアグリッパの功績だった。そしてどんな女になったのであれ、ユリアがこれまでの人生の中で最も幸福である日々を過ごしているのもまた間違いないのだろう。

  アグリッパはユリアを幸せにした。

  そしてそんなアグリッパもまた、これまでよりもいっそう輝く魅力的な男に見えた。「今がいちばんかっこいい」との妻の言葉は、ただ惚気ているだけでもないだろう。

  自分はあの人の最愛の娘を幸せにできるのだろうか。

「ティベリ様」

  ある日、家に帰ると、ヴィプサーニアが両腕を広げ、腰を下げ、両足を踏ん張り、オリュンピアの拳闘士のように立ちはだかっていた。

「おかえりなさいませ! お待ちしておりました!」

「ヴィプサーニア」

 ティベリウスは目を閉じた。そのまましだいに笑みがこぼれていくのを止められなかった。

  悪くはない。確かに悪くはない。

  とにかく夫婦生活とは、どんなものであれ、退屈とは縁遠いものであるようだ。

「ユリア様がご本を届けてくださいました」

 回廊を奥へ並んで歩きながら、新妻が報告した。

「良き妻となるために、『夫への尽くし方』を詳しく記した詩集であると」

「読まずに送り返しなさい。絶対に」

 

 

 

(終)

※※※※※

上記の内容を、いたるさんはすでにファンアートとして絵にしてくださっています(ご本人様のSNSにて)。オチには「むしろキミが読むべきだ!」との的確すぎるツッコミまでいただきました! 書いた者として、このうえない喜びです。いつもいつも、いただいてばかりで、本当にありがとうございます!!

 

いたる先生は現在、コミックカルラさんにて『皇帝列伝』シリーズを連載しておられます。ティベリウス回がなんと初の大増量前後編だった、あの……!! 無料で読める話数も多いので、ぜひ!!

皇帝列伝 - いたる | コミックカルラ (carula.jp)

 

わたくしが過去にいただいたものはこちら。(※いたる先生の連載デビュー前のものです)(しかもこれらで全部ではない……)

 

◆三作目

(別所にて、ガルスとコルネリアも描いてくださっています……!)

From『世界の果てで、永遠の友に ~古代ローマティベリウスの物語、第三弾』 https://ncode.syosetu.com/n5712hm/

◆二作目

 

◆一作目