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A.Banana.S

古代ローマ、ナックス兄さん、ドートマンダー・・・好きなことをぽつぽつと。

拙著『ティベリウス・ネロの虜囚』 プロローグと第一章一節(『小説家になろう』様に掲載中)

 

 

 首から指が、ようやく外された。

 ティベリウスはずるずると崩れた。肩を震わせ、声もなく、滂沱の涙で顔をぬらしていた。

「お前は虜だ」

 アントニウスは冷厳と告げた。

「裏切りの、哀れな虜囚。これを認めないかぎり、お前は永遠に捕らわれのままだ。死ぬまで、あいつの手の中で踊り続ける。まったくこんなかわいそうなやつを、俺は見たことがないぞ…」

 辺りにいた全員が、時が止まったように立ちつくしていた。女王でさえ、茫然自失の体で固まっていた。

 アントニウスは踵を返した。

「ネロは俺をぶん殴るだろうな。でも俺は、お前を救い出そうとしてやったんだって、言い訳してやるさ」

 

 

 

 

 

 元の部屋に戻されたあとも、ティベリウスは泣き続けた。たった独り、灯火も燃えない暗闇のなかで声を上げた。

 どんなに声を上げても、だれの返事も来ない闇。その静かな底で、泣いた。泣いて、泣いて、果てなく泣いた。

 どんなに泣いても、父ネロは現れなかった。アントニウスの言葉を、否定も肯定もしてくれない。まぶたの裏で、あの厳しい面差しのまま、たたずんでいるのみ。どうしたら償えるのかさえ教えてくれない。

 暗闇に泣き続けた。声が枯れても叫び続けた。ティベリウス・ネロが崩れ去り、誇りがそぎ落とされ、魂が剝き出しにされても泣いた。泣きながら答えを探した。これを見つけないかぎり、泣き止むことはできない。それでも問いそのものは、やっと見つけていたのだ。

 どうしてこんなに苦しいんだろう。身も心も引き裂かれる思いをして泣いているんだろう。独りきり、考えて、悶えて、傷ついて、また考えなければならないのだろう。

 けれども、答えは一つだ――。

 

 

 

 

 

 

第一章 ティベリウス・ネロ

  

 

 

 

(前三三年)

 

 

 鋭い鞭の合図が響くと、ティベリウスとマルケルスは同時に馬を駆った。並んで競技場の中央に進み出る。そこで左右に分かれる。

 次の合図が響くと、二人は馬を反転させた。右手に槍を捧げ持ち、じっと対峙する。

 二騎の中点から垂直に離れた位置で、少年たちが瞬きもせずに見守っていた。目玉を左右交互に動かし、今か今かと次の合図を待つ。

 教師が力いっぱい鞭を打ちつけると、二人は手綱を思いきり引いて、馬を反り返らせた。柄をしっかと握り、穂先は相手の鼻へ。まっしぐらに互いへ突進する。

 あわや激突というところで行き違うと、少年たちはわっと歓声をあげた。

 だがその声が消えぬ間に、二人は再び馬を反転させる。まずはティベリウスの攻撃だ。

 ティベリウスが槍を構えて迫ると、マルケルスはじりじりと馬を後退させた。兜の下に見えるその顔は真剣そのもの。強張った頬を、汗が一筋伝っている。その左腕の盾を、ティベリウスの穂先が軽く突く。するとマルケルスは素早く馬を反転させ、退却する。一定の間合いを保ちながら、ティベリウスは後を追う。馬の歩みは着実だった。

 マルケルスはふいに馬をひと跳ねさせ、追撃者に向き直る。一瞬馬上で小さな上体が揺れるが、両足はしっかりと馬の胴体を挟んでいた。今度はマルケルスが攻撃する番だ。

 迫りくる穂先からつかず離れずの距離を測りつつ、ティベリウスは後退する。もちろんそれは、相手を傷つけることのないようあらかじめ丸められていたが、陽光を受け、本物さながら鈍い光を放つ。目の前に突き出されれば、やはり不気味だ。それでも穂先よりむしろ相手の目を注視したまま、ゆっくり後退するティベリウス。マルケルスは口元を引き締める。

 やがてティベリウスもさっと馬の向きを変え、退却する。敗走の演技だ。

 マルケルスはすぐさまその背を追撃する。相手がまた反転できる間合いを保ちつつ走るところだが、勢いは激しい。そのままティベリウスを馬ごと蹴散らしてもおかしくないと思わせる。

 ティベリウスが反転してその穂先を受け止めた時、勢いのあまり馬上で上体が反れた。

 はっと息を呑むのは、マルケルス。

「いよっ、さすが猛将マルケルス! ローマの剣!」

 見物していた少年の一人、メッサラ家のマルクスがはやし立てる。その横ではネルヴァ家の、同じくマルクスが思わず目を伏せる。

「やっぱり危ないって…」

「大丈夫」

 ティベリウスは小声で、マルケルスに教えた。兜の下で、そっと微笑してみせる。

「今度はこっちの番だ。まだ先は長いよ」

 いつものゆっくりとした調子で聞こえてきた言葉に、マルケルスも微笑みを返す。

 ティベリウスは馬の腹を蹴り、反撃に移った。

「おっ、大胆不敵ガイウス・ネロの奇策、いよいよ始まりか?」

「ガイウスじゃなくて、ティベリウス・ネロだけどね、今戦ってるのは」

「言われなくてもわかってるっての。ノリだろ、ノリ」

 二人のマルクスが、騎乗の二人の高名な祖先について言葉を交わすあいだ、コルネリウス・レントゥルスは、やや遠い目をして眼前の攻防を眺めていた。彼は隣の少年に尋ねた。

「今のところどっちが優勢かなぁ?」

 周囲の興奮にそれほど巻き込まれていないらしく、のんびりとした口調だった。

 ルキウス・ピソは、黙って首をかしげた。彼も騎乗の二人から目を離さなかったが、審判役を任されているだけに、ほかのだれよりも真剣だった。

 騎乗の二人は、この攻撃と反撃の遊技をもう二回繰り返した。

 そして鞭の合図が鳴ると、二人は穂先を十字型に交え、それを軸に円を描いてまわる。その間、互いの目をじっと見つめて逸らさない。

 さらに合図が鳴ると、大きな音を立てて槍を重ね、左右対称に遠ざかる。今度はそれぞれ、相手を警戒しながら大きく円を描く。見えない円周上を、二人は交わらないよう巧みに歩調を加減しながら馬を操る。目は油断なく逸らさない。

 信用すべきか、否か――。

 さらなる合図が地面を打つと、二人は軽快な調子で馬を近づけた。

 ティベリウスは槍を左手に持ち替え、右手を差し出す。マルケルスも右手を伸ばす。上体を横に曲げ、二人はがっしりと手をつないだ。

 少年たちがやんやと歓声を上げて拍手をし、調子を合わせる。和平が成ったのだ。

 マルケルスはにっこり笑いかけてきた。演技ではなく、本心からの笑顔に見えた。ティベリウスはもう少し控えめに笑みを返した。残念ながら、和平の誓約は長く続かないのだ。

 しめった手指が名残惜しげに離れていく。二人は並んで馬を走らせる。少しずつ速度を上げつつも、互いの馬の足並みが揃うよう、細心の注意を払う。息を合わせ、しだいに拍車を強くかけ、加速する。眼前には木の柵が迫っていた。

「はっ」

 二騎は同時に宙を飛んだ。乗り手の兜飾りから馬の後足の先に至るまで、完璧に揃っていた。

 着地の足並みにもまったく乱れはなかった。少年たちも今度は真実の歓声で二人を讃える。

 しかし障害物はまだ立ちふさがる。立て直しから、次の助走に入る流れによどみはない。二騎とも恐れず、一直線に駆ける。

 第二の飛越も、ほとんど重なっていた。ティベリウスがやや速く、低すぎたのか、マルケルスがやや遅く、高すぎたのか。それでも二騎は、さながら紺青の地中海を舞うイルカのように、美しい弧を描いた。

 馬が地に足をつけた一瞬、ティベリウスは横眼を走らせた。マルケルスはやや前のめりになりながら、着地の衝撃に耐えたところだった。

 そのまま二騎は、三番目の障害物に走る。同様に見事な飛越を見せ、地面に降り立った瞬間、二騎ははじかれたように左右に離れた。

 半円を描いて方向転換し、第四の障害物を単騎で飛び越える。もちろん、離れていながらも跳躍のタイミングを合わせていた。

 二騎は再び競技場中央に戻ってきた。穂先を天にかざして向かい合う。和平は決裂したのだ。

 ティベリウスの背後には、二人の対決を喜々として見守るほかの少年たちがいた。そして正面の上、マルケルスの背後にある観客席には、仕事を終えた大人たちがぽつぽつ腰を下ろし、この遊技を見物していた。正確には遊技の練習なので、見世物好きなローマ市民たちも、それほど集まっていなかった。血沸き肉躍る野獣狩りでも剣闘士試合でもなく、少年たちによる競技祭の本番でもないのだから。

 ただ、観客席第一列目に座しているカエサルオクタヴィアヌスの姿は、いやでも目に入った。マルケルスも背後の視線に気づいているはずだった。

まもなく山場だ。

 鞭の合図。二騎は同時に拍車をかけ、猛然と馬を駆る。ふいに手綱を強く引く。馬が止まり、反り返り、二人は槍を振りかぶる。馬の前足が着地するに合わせ、思い切り投げつける。

 当然のことながら相手に当てるつもりはない。槍はそれぞれ狙ったとおり、一馬身ほど離れた相手の左後方に落ちた。練習用の、しかも子供用の軽い槍なので、地面に突き刺さることはない。

 ティベリウスの投げた槍が鋭く空を切ると、マルケルスの左肩がかすかに上がった。槍は、地面にこすれて砂塵を上げた。

 少年たちが興奮した声を上げる。マルケルスはすぐに顔を上げた。

 ティベリウス前進する。相手から目を逸らさず、腰に提げた剣を抜く。もちろんこれも刃を丸めている。

 マルケルスも同じく剣を手に、勇ましく馬を駆る。その顔は汗まみれだが、目に宿る闘志はまぎれもない。両者が馬を勢いづかす。まさに相手を討ち取る気迫そのもので突き進む。

 刃が音を立てて激しく交差すると、二人の上体が大きく揺らいだ。少年たちの声も悲鳴交じりに揺れる。

 すれ違いつつ、二人は馬を離す。立て直そうとするように、ティベリウスは手綱を強くつかみ、上体を前倒しにする。すぐさま相手に向き直り、さらなる絡みの演技に移ることになっていた。

 だがマルケルスが振り返りざまに剣を向けた時、ティベリウスの体はまだバランスを取り戻していなかった。馬も予定外に近くにいた。ティベリウスは顔をかばうように、さっと腕の盾を掲げる。マルケルスの刃は当たらなかったが、その横ざまに空を切る勢いに圧されたかのように、さらに上体がかしぐ。馬も傾く。

 少年たちの悲鳴。

 体が離れる間際、ティベリウスは剣を手放していた。宙をまわり地面を滑り、離れていく。持ち主も地面に片足をつき、よろめきながら馬から数歩離れた。

ティベリウス!」

 マルケルスが大声を上げる。少年たちの嘆声が後を追った。

「そこまで!」

 体育教師が鋭く呼びかけるや、マルケルスは馬から飛び降り、剣を投げ捨て、ティベリウスに駆け寄った。

「大丈夫?」

 兜の下で蒼白になっている彼に、ティベリウスはうなずいてから微笑を浮かべた。それから赤い手のひらに一瞬目をやり、顔の汗をぬぐう。

 マルケルスはその返事が本当か確かめるため、友人を頭から足の先までつくづくと眺めた。

「なんともないよ」

 そう言ってティベリウスは、定位置からかしいだマルケルスの兜を軽く上に押してやった。防具も武器も、子供の練習用に作られた軽いものとはいえ、それらを装備したまま演技するのは、やはり大変だった。

 少年たちがわっと騒ぎながら駆け寄ってきた。兜を脱いだ二人は、ほっと息つく暇もなく取り囲まれた。

「すごかったよ、二人とも!」

「ホントに九歳かよ、オイ」

ティベリウスはまだ八歳だよ。惜しかったね」

「でもまあ、これで次のトロイヤ競技祭の年少組組長は決まりってわけだ」

 パウルス・ファビウスがにやりと笑って言った。それから最年長のルキウス・ピソの顔を見た。ピソは軽くうなずいた。

「かなりいい勝負だったが、落馬されてはな」

 ピソはマルケルスを見た。

「おめでとう、マルケルス。来たるトロイヤ競技祭では、君が年少組を率いるんだ。よろしく頼むぞ」

 というのも、年長組組長を務めるのは、ピソであるからだ。

マルケルスはティベリウスを見た。ティベリウスはうなずいた。

「おめでとう。君に任せたよ」

 マルケルスは笑顔になった。少年たちから拍手が沸き起こる。それに観客たちの手も加わり、しばしこのフラミニア競技場を満たした。

「大変だな、ぼくらの組長はあの『猛将』マルケルスだってよ。偉大なる『ローマの剣』だ。きっと最初から最後まで死闘の連続だぜ」

 メッサラ家のマルクスが、また祖先の話を持ち出した。

「まぁ、ネロ家の風雲児にイタリアを端から端まで奔走させられるみたいに、チルコ・マッシモを振りまわされることはなくなったね」

 今度はネルヴァも調子を合わせた。チルコ・マッシモとは本番のトロイヤ競技祭が行われる、ローマ最大の競技場である。

「さて、ぼくも組長をファビウスに譲ろうかな。『ローマの剣』には『ローマの盾』で対抗しないと」

「いいの? 演技なんてそっちのけで、持久戦法をとるぞ」

 ピソとファビウスまでが冗談を言い出した。

 マルケルスは苦笑交じりの困った顔をしていた。その名を知らぬ者はない偉大な祖先を持つことは、このうえない誇りではある。だが、まだ少年であるのに事あるごとに重ね合わされては、重圧も相当なものだ。ティベリウスには、その気持ちがよくわかった。

 ましてや祖先ばかりか、偉大になりつつある当代の肉親の血も背負うとなると――。

「なんだよ! あにうえ!」

 突然、頭上から声が降ってきた。ティベリウスは思わず眉根を寄せた。

「マルケルスに負けやがって! のんびりしてるからそうなるんだぞ!」

「ドルースス」

 ティベリウスは観客席を見上げた。五歳の弟ドルーススが、奴隷の腕の中で暴れていた。

「もっとこう、思いっきりぶつかっていけよな! 剣はこうやってこうして力いっぱいふってまわしてつっ込んで、ひっさつの一げきをおみまいして――」

「これは、そういう競技じゃないんだよ、ドルースス」

 ティベリウスは、水を一滴ずつしみ込ませるように言った。ドルーススは、まるで自分が試合の只中にいるかのように激しく身振り手振りし、奴隷にわたわたと押さえられていた。

「相手をやっつけるんじゃなくて、隊で馬術を披露する遊技なんだ」

「組長はマルケルスにとられたじゃんか!」

 ドルーススはなおも怒って身を乗り出した。

「あにうえはくやしくないのかよう!」

「しかたないだろう? マルケルスのほうが技術が優れていたんだ」

 ティベリウスはため息をついた。

「だ・か・らっ、あにうえはもっとこうやって、えいっ、やあってがんばって気合いいっぱいにして、のんきにもたもたおとなしくしてないで――」

「ドルースス」

 すぐ後ろから、きりりと締まった声が聞こえてきた。

「もう落ち着きなさいな、兄上に対して無礼ですよ」

 ドルーススは振り返った。母リヴィアが兄そっくりの厳しい顔で見つめてきていた。ドルーススはしかたなく押し黙ったが、その顔は不満たらたらだった。

 母リヴィアの隣から、カエサルオクタヴィアヌスが笑いながら立ち上がった。継子のふくれ面を愛情込めて軽く叩いてから、競技場の少年たちを見下ろす。

 全員が思わずかしこまった。なにしろ相手は亡き神君ユリウス・カエサルの後継者にして、ローマを牛耳る三頭のひとり。うち一頭はすでに失脚し、もう一頭ははるか東方でエジプト女王の腕の中にいる今となっては、まぎれもなく広大な領土を統べる覇者ローマの筆頭人物だった。

 今少年たちが組長決めをした、トロイヤ競技祭の主催者も彼だった。先代カエサル以来、十二年ぶりの開催を決めたのだ。

 オクタヴィアヌスは、その微笑みを妻リヴィアの長子に向けた。

「残念だったな、ティベリウス。だが見事な手綱さばきだったぞ。槍の腕もな」

「はい」ティベリウスは堅苦しい声で答えた。「ありがとうございます、カエサル

「マルケルス」オクタヴィアヌスは姉の息子に顔を向けた。「よくぞ勝利を手にした。まだ騎乗の練習を始めて間もないというのに、驚くべき上達ぶり。鮮やかで美しい演技だった。姉上が今日この場にお越しであったら必ず私同様、誇らしさで胸がいっぱいになっただろう。だが知ってのとおり、本番は十二騎の仲間を従え、さらに複雑で難度の高い演技に挑戦することになる。今後もたゆまず、練習に励むように。怪我に気をつけてな」

「はい、叔父上」

 マルケルスは目を輝かせて答えた。

「皆もだ」オクタヴィアヌスは少年たち全員を見渡した。

「トロイヤ競技祭は二ヶ月後に開催される。長きにわたりローマの繁栄を担ってきた名門の血を引く君たちが、由緒ある祭典の場で才能を披露することは、誠に名誉なことだと、私は思っている。君たち一人一人こそが、国家の古き良き伝統を受け継ぎ、やがて責任ある指導者として、確かに未来を担っていくのだから。我らが大いなる希望よ。君たちの親や、多くの市民たちの前で、ぜひ堂々たる頼もしい姿を見せてほしい」

「はい、カエサル!」

 少年たちは一斉に答えた。

 オクタヴィアヌスはにっこり笑った。

「二ヶ月後の勇姿を楽しみにしている」 

「ああ、どうしよう」

 ネルヴァが悲しげにうめいた。少年たちはオクタヴィアヌスとリヴィアに別れの挨拶を済ませ、競技場の出口をくぐるところだった。

「マルケルスとティベリウスがやった、あれを十三人でやるんだよ?」

「三十九人だ」ピソが訂正した。

「うん。年長組の二組と一緒、全部で三隊で演じるんだよ」

 ファビウスが続けた。十三歳の彼が、年長組の副組長だった。

「明日から合同練習をはじめよう」組長ピソが言った。

「ああ…」と嘆くばかりのネルヴァに、ほかの少年たちの視線が集中した。

 少年たちは今日の練習を切り上げて、観客席下にある浴場に向かっていた。自宅へ帰る前に、午後いっぱい続けた鍛錬による汗と埃を洗い流すのが、彼らの日課だった。

「ぼくが体を動かすのが苦手なの、知ってるでしょ?」

 うめくネルヴァ。すると、九歳にしてはせつないその肩へ、マルクス・メッサラが腕をまわした。

「大丈夫だよ。動くのは馬だから」

「ぼくをなぐさめてるの、マルクス? 自分の体さえうまく動かせないのに、馬を動かすなんて――」

 気楽な同い年の友人を、恨めしげににらむ。

「心配するなよ」マルクスはその華奢な肩をばんばん叩いた。「ティベリウスだってできたんだから」

ティベリウスは特別だよ」

 ネルヴァは、もう汗の跡もないティベリウスを横目で見やる。

「ぼくなら絶対あそこで取り乱して、足を折ってたよ」

「まあ、確かに」マルクスはすぐに同意した。「いちばん遅く生まれたくせに、ぼくらのだれよりどっしり落ち着いてるもんな。まさに我らが『長老』」

「悪かったな、老けてて」

「いやいや、ほめてるんだよ、ティベリくん」

 ネルヴァの頭越しに、にやにや笑いかけるマルクス

「君はどんな運動も万能、勉強だって、このネルヴァと並ぶ優等生じゃないか。ぼくの父上もほめちぎってたよ。うらやましいね。まさに神様は一物も二物も与えたってヤツ?」

「そうかい。でも口の上手さは君にかなわないと思うけど」

「まぁまぁ」

 あからさまに不快の気持ちを顔に出すティベリウスを、レントゥルスがマルクスから引き離した。

「適当に笑って受け流せばいいのに」

 小声でささやく。ティベリウスはそれに答えず、むっつりとした顔のまま歩き続けた。

 観客席下にある、屋内体育場の横を通り過ぎた。そこで肉体鍛錬に励んでいるのは、ローマ指導者層である元老院階級、その下の騎士階級、一般市民、解放奴隷の若者、さらに主人につき従ってきた奴隷にまで至る。まだ軍役に志願できない、十七歳未満の少年が多い。

 彼らは私塾で、あるいは自宅で勉強をして午前を過ごし、昼食を済ませるや、市内各所にある体育施設に集まる。そこで今度は体育教師の指導の下で、健全な肉体づくりに精を出す。

 ティベリウスたち三十九人は、来たるトロイヤ競技祭の出場者に選ばれていたため、普段とは別課程で練習していた。年長組は十五歳のルキウス・ピソ、年少組はその親戚である、十一歳のグネウス・ピソが最年長だ。ティベリウスは、十一月の誕生日を迎えれば九歳になる。トロイヤ競技祭が開かれるのも、同じ月だ。

 トロイヤ競技祭を『復活』させたのは、先代の神君カエサルだった。『復活』とは、神君カエサルによると、この競技祭の起源ははるか千年前にさかのぼるからである。

 トロイヤとは、巨大な木馬で有名な伝説の国である。はるか千年の昔、東方のアジアで十年の長きにわたって繰り広げられた英雄戦争。トロイヤはギリシア連合軍に滅ぼされるが、将軍アエネイスは家族や部下とともに落ちのびた。そして長く困難な旅路の末イタリアにたどり着き、国家ローマの礎を創ったとされる。それで、自分たちは皆トロイヤ人の子孫なのだと、ローマ市民は信じていた。

 伝説によると、アエネイスの母は女神ヴェヌスであるという。だからアエネイスは神の子となるわけだが、このアエネイスにも子がいた。イウールスという男児で、彼こそローマで最も古い貴族であるユリウス氏の直接の祖先である――少なくとも、神君カエサルはそう主張していた。つまりユリウス・カエサル家は女神ヴェヌスの血を引く一族である、と。

 トロイヤ競技祭は、つまるところヴェヌス、アエネイス、イウールスと続くユリウス氏の血脈を知らしめ、権力を正当化する目的が暗にある。それをほかの名門出少年たちを披露する場としても確立しつつあるのが、オクタヴィアヌスだった。

 ユリウス氏だけがローマを動かすのではない。これまでの共和政時代と同様、名門出の多くの人材が国政を担っていく。そうすかさず知らせているかのようだった。

 それで、ローマ屈指の名門貴族の家に生まれたティベリウスクラウディウス・ネロ、そして同じクラウディウスではあるが、こちらは平民の氏になるマルクスクラウディウス・マルケルスは、ほか三十七人の家柄の良い少年たちとともに出場を決められた。もっとも、この二人は競技を主催するカエサル家とも縁が深かったから、出場はほとんど自明のことだった。

 ただ、カエサルが今日の練習を見物しに来なければ、二人が演技の優劣を競って組長を決めることにはならなかっただろう。そうティベリウスは思う。おそらくは投票によって、穏やかに決められたはずだ。おそらくマルケルスか、最年長のグネウスに。

 オクタヴィアヌス臨席に気づいたマルクス・メッサラが、最初に言い出したことだった。せっかく忙しい仕事の合間にカエサルがお見えになったのだから、その親愛なる甥と継子を対決させて、我らが組長を決めようじゃないか、カエサルも楽しんでくださるに違いない、と。

 ティベリウスもマルケルスも懸命に辞退したのだが、ほかの少年たちは大乗り気だった。そこへピソら年長組もなんだなんだとばかりにやって来て、さらには肉体鍛錬とは勝敗を競うためにあると考えているギリシア人体育教師までが、オクタヴィアヌスの愛顧を得んと決闘を命じた。

 それが、先の結果だった。

 ティベリウスはふと後ろを向いた。マルケルスが少年たちの集団から少し離れ、うつむき加減に歩いているのに気づいた。歩調をゆるめ、肩を並べる。

 マルケルスはそれを待っていたかのように顔を上げた。

「本当にぼくでいいのかな?」

 不安そうに眉尻を下げていた。

「今日の演技だっていっぱいいっぱいだったのに、十二人の組長だなんて」

「まだ二ヶ月あるさ」

 ティベリウスは気楽に聞こえるように言った。

「だけど、ぼくは年少組のなかでも年下だし、ちゃんとみんなをまとめられるかな? ついてきてくれるかな?」

「みんなで君を認めたんだ。心配いらないよ」

「でも――」マルケルスの目は、前を行くグネウス・ピソの背中に注がれた。彼は周りのどの少年とも言葉を交わそうとせず、ずんずん大股で歩き続けていた。「グネウスは、ぼくが組長になることを良く思ってないみたいだ」

 それは、ティベリウスにもわかっていた。グネウスはティベリウスとマルケルス以外に、対決による組長決めに反対した唯一の少年だった。最年長の自分が選ばれるべき、とは言わなかったが、こうした場合の慣例通り、投票で決めるべきだと言い張っていた。

「真面目だからな、グネウスは」四角張った背中を見ながら、ティベリウスはつぶやいた。「でも結局ぼくらが勝負することになったのは、みんなの多数決だろう? それで決めたからには君の言うとおりに動くのが、ぼくらの役目だ。従わないやつがいたら、それは隊の一員失格だ」

「…きっぱりしてるなあ、ティベリウスは」

 義理の従兄弟に、マルケルスはうらやむような、畏れるような目を向けた。

「やっぱり君が組長になればよかったのに」

「ぼくはいちばん年下だぞ」

「たった半年しか違わないよ、ぼくと」そんな事実など信じないと言わんばかりに、苦笑をもらす。

「心配なんだ。あんなに難しい演技、大勢の前で失敗したらどうしようって。そうなったら、叔父上にも申し訳ないよ…」

 近くにほかの少年たちがいなければ泣きだしそうな顔だった。足取りは重く、震えているようにも見えた。

 マルケルスの不安は、責任感の裏返しだった。名門少年代表の役目、そしてなによりカエサルオクタヴィアヌスの期待を背負う立場は、九歳でなくとも重いに違いなかった。ましてマルケルスのように、真面目で心の優しい子どもならなおさら。

 ティベリウスはちくりと胸が痛んだ。

「しっかりしろよ、マルクス・マルケルス」

 どんっと彼の肩を叩き、ティベリウスは微笑んでみせた。

「自信を持てよ。君はあのハンニバルを苦しめた『ローマの剣』マルケルスの子孫、高名な父と伯父を持つマルケルス家当主、カエサルの血を引くただ一人の甥、そしてなにより、四人の妹をたばねる『猛兄上』だ」

 マルケルスの顔がたちまち明るくなった。ティベリウスはほとんど冗談を言わないのだ。

「ありがとう、ティベリウス

 従兄弟の肩に、しっかりと手を乗せる。

「ぼく、がんばるよ! ぼくには君がついてるもんね!」

 ふと、横から気配を感じ、ティベリウスは足をとめた。

 マルケルスはもう数歩進んでから、きょとんとして振り返った。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 そう言いつつも、ティベリウスはとたんに早足で前に進んだ。追いついたのはレントゥルスの背中で、その二の腕をつかむ。

 振り返ったレントゥルスは、ティベリウスが指差した先を目で追った。

 列柱の蔭だった。屋内体育場の奥に、一人の少年がたたずんでいた。明るい金髪に茶色い瞳。年少組の年頃だ。かなりあからさまに、ひたすらティベリウスを注視している。

「あいつかい?」

 レントゥルスのつぶやきに、ティベリウスはうなずいた。

 無表情のその少年からは、まったく感情が読めない。

「確かに見ない顔だね。少なくともぼくは知らないなぁ」

 レントゥルスにもティベリウスにも見覚えがないということは、元老院階級の家の子弟ではないと見てよさそうだった。そうであるならば、二人のどちらともまったく面識がないとは、まず考えられない。

「ここ三ヶ月、ずっと見られてるんだっけ?」

 レントゥルスはにやにやしていた。ティベリウスはその少年を鋭くにらみ返した。

「いったいなにが目的なんだろう?」

「直接聞いてみたら?」

 レントゥルスは提案した。

 ティベリウスが一歩踏み出すと、その少年はすぐさまほかの子どもたちにまぎれて消えてしまった。

「照れ屋だね」

 レントゥルスが笑う。

「いつもこうなんだ」

 ティベリウスはうなる。いいかげん頭にきていた。

「馬鹿にしてる。用があるならさっさ来ればいいのに」

「きっと君の熱烈な崇拝者だよ。友だちになりたいのかな? それとも恋だったりして」

「やめろよ」

「いやいや、十分ありうるって」レントゥルスは楽しそうに言った。「君はマルケルスみたいに健気で可愛い美少年って感じじゃないけど、気品ある男前な顔だし」

「やめろって」

「まぁ、いざとなっても、君なら遠慮なく返り討ちにするから、心配ないかな」

「なにが、『いざとなっても』なんだよ?」

 不機嫌な年下の友人に、レントゥルスは笑ったまま小さく肩をすくめた。

「冗談だよ。でもローマでも、昔からそういう趣向の人はいたみたいだからね、気をつけて。あ、なんならぼくが先手を打っておこうか? 君にはすでに、このぼくという人が――」

 五歳先輩の足を踏んづけてから、ティベリウスはいまいましさに歯をかみしめ、例の少年が消えた先をじっとにらんだ。 

「そのうち絶対捕まえてやる」

 

 

 

 

 

 

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続きを読んでくださる場合は、こちら『小説家になろう』様の、東道安利のページへジャンプしてください(http://ncode.syosetu.com/n6930cz/) 。しかし長大ですのでくれぐれも無理をなさいませんよう・・・。

 

 

 

 

あ~~、とうとうやってしまいました~(^_^;)