A.Banana.S

古代ローマ、ナックス兄さん、ドートマンダー・・・好きなことをぽつぽつと。

平和の祭壇と東方の女王②

 

さて、ここから女王デュナミスについて、もう少し詳しく見ていきます。主に参考文献は『西洋古典学事典』(松原國師著)という、ものすごい本です(それはもう色々な意味で)。それでも彼女の情報は少なく、正確なところはつかめないのですが。

 

生年は不明。女王在位は前47~後8年頃。ということは後8年頃に没したのでしょう。

父親はポントス王ファルナケス。この人は、ローマ相手に何度も戦争をした「大王」ミトリダテスの息子です。

したがってデュナミスはミトリダテス大王の孫であり、ポントス王女でした。

ところが前47年、ゼラの戦いでファルナケスは敗北します。相手はかのユリウス・カエサル。「来た、見た、勝った」の言葉で表された、あの戦です。

ファルナケスは逃亡しますが、部下の将軍に裏切られ、殺されてしまいます。その将軍の名はアサンドロス。デュナミス王女の夫でした。

つまりデュナミスは父親の仇を夫として生きたのです。

こうしてアサンドロスは王位を奪いましたが、また追い出されるとか色々あって、結局後にアントニウスとオクタヴィアヌス(当時)の支持を得て、ポントス王ではなくボスポロス王の地位に落ち着いたようです。

アサンドロスの生没年は前108~前15年とされています。ということは前47年の時点で、もう60歳。結婚当時、デュナミスは何歳だったかわかりませんが、もしかしたら15歳前後だったかもしれません。とにかく父親どころか祖父のような年齢の人へ嫁いだのは確かでしょう。

アサンドロスは93歳で没します。古代ではものすごく長命ですが、軍隊に見捨てられ、自刃したとも書かれています。この経緯はわかりませんが、この一件にデュナミスが関わっていたとする資料も見かけました。彼女が夫を死に至らしめたと。

デュナミスは30年を経て父親の仇を討ったのでしょうか・・・?

 

その後、デュナミスはスクリボニウスという名のローマ人と1年程結婚していたらしいとの記述があります。この辺も経緯が不明ですが、アサンドロスの死でボスポロス王国がもめた様子は窺えます。

 

ここで登場するのがアグリッパです。彼はボスポロス王国の騒動を鎮めるため、当時のポントス王ポレモン1世を派遣します。

デュナミスはこのポレモン1世と前14年頃結婚します。彼女には3度目の結婚です。

 

ここまでの経緯を、歴史家カッシウス・ディオの記述から追いかけます。(こちらはがっつり作品が残っているのですが、日本語に翻訳されていません。情報量は半端ないのですが、翻訳されない理由は、私もなんとなくわかりました・・・。そういうわけでまた私の怪しい英文解釈でお送りすることをご容赦ください)

 

アサンドロスの死後、スクリボニウス(なぜか自称ミトリダテス大王の孫)が、デュナミスと結婚し、ボスポロス王に。→これは良くないと思ったのか、アグリッパ、ポレモン1世を送る →ボスポロス国民、スクリボニウスを殺害。しかしポレモン1世にも反発 →アグリッパ自ら赴き、ボスポロス王国を平定。デュナミスはポレモンと結婚し、ポレモンがボスポロス王位に。

 

ここで問題なのは、デュナミスの在位が前47年とされていることでしょうか。これまでの彼女は「王妃」ではあるけれど、「女王」ではないはず。

もしかしたら国民へ向けて、「共同統治」という名目をとっていたのかもしれません。デュナミスに流れる大王ミトリダテスの血の威力が大きかったということなのかもしれません。

そしてポレモンの場合は、ポントス王も兼任していたために、ボスポロス王国はやはり事実上も共同統治だったのかもしれません。

ポレモンの死後の前8年、彼女は名実ともにボスポロス女王となります。

ちなみにこのポレモンの死も、デュナミスが裏で糸を引いていたとの記述が・・・・・・まあ、それはまた別の機会に書ければと。

 

ここで改めて、前47年、父王ファルナケスの死亡当時、デュナミスを15歳と仮定します。つまり前62年頃の生まれであると。

すると前14年、ポレモンとの結婚当時は48歳です。

前8年、ポレモンが没し、女王となったときは54歳。

没年の後8年には、69歳となります(こういう計算苦手です。間違っていたらすみません)。

 

さて、ようやくながら、ここまでの話が『平和の祭壇』とどんな関係があるのか、ですが、実はデュナミスはアサンドロスの死からポレモンとの結婚までの騒乱時、ローマに身を寄せていたとの記述があります。あのサイト様にも書かれていたと思いますが、アウグストゥスの家に滞在したそうです。そしてリヴィアへ、大変お世話になったと感謝していたとのことです。「人質」というより、おそらく自国がもめているので、ローマに一時的に避難していたという状況だったのではと推測します。

改めまして、時期は前14年前後。

『平和の祭壇』の着工が前13年。

ぎりぎり収められてもおかしくないのではないでしょうか。

 

しかし、はい、私が問題にしていたのは②の少年だったはずです。

 

実はデュナミスには子どもがいたとされています。

名前はアスプルーゴス。ボスポロス王国の周辺にアルプルゴイノイという部族がいたので、おそらくそこから名前を取ったのではないかと思われます。したがって順当に考えれば、その息子はデュナミスと周辺部族の男との子です。

 

このアスプルーゴスは、デュナミスの後にボスポロス王位に就きます。そして名を、ティベリウス・ユリウス・アスプルーグスとします。つまりティベリウスと友好関係にあり、表裏に自分とティベリウスの顔を刻んだコインまで作らせています。

おそらくティベリウスアウグストゥスの養子になって後の、ゲルマニア、あるいはパンノニアの戦争へ(後4年~12年頃)、アスプルーゴスは同盟国の王として参戦し、活躍したのでしょう。

 

このアスプルーゴスは、デュナミスの息子ではなく、夫であるとする説もあります。ポレモンの死後に、デュナミスが結婚した4人目の夫であると。無理がないのはこちらの説でしょう。いずれにしろ、デュナミスよりはだいぶ年若かったのでしょう。

 

しかしあえて、このアスプルーゴスを仮にデュナミスの息子としましょう。

はい、そうです、だれの子ですかという話です。

最初の夫、アサンドロスの子か。しかし彼は前47年当時ですでに60歳。もちろん子どもは作れるでしょうが、それにしてもアスプルーゴスという名前はつけないのではないかと思います。王家にしてみれば、蛮族の名ですからね。

では第2の夫スクリボニウス、ないし第3の夫ポレモンの子か。前14年、デュナミスは48歳。現代ならいざ知らず、古代では出産は厳しい年齢のはずです。

 

ここで『平和の祭壇』に戻ります。あのサイト様の記述にも戻ります。

②の少年がアスプルーゴスで、頭を撫でている女性がデュナミスであるという説です。

これならばあの少年が、東方風の容姿だったのも頷けます。ただやはり問題は、だれの子か、です。

 

ここからはたぶんあのサイト様にもなかった話であり、私の推測ですのでご注意ください。

 

②の少年は、先にゲルマニクスとした少年よりも明らかに背丈が大きいです。ゲルマニクスは2~3歳だったはずで、有力説の場合のガイウス・カエサルは前20年生まれなので、7~8歳です。遅ればせながら、浮彫には前12年に死去するアグリッパが描かれているので、基準点はその年とします。

 

アスプルーゴスが、このガイウスとされてもおかしくない少年であるとしたら、推定年齢の幅は7~10歳ほどになるでしょう

10歳としましょう。その場合、アスプルーゴスの生年は前22年となります。デュナミスは40歳。

これならば、古代でも出産があってもおかしくないのではと思いました。

ではだれの子? やはり夫アサンドロスか。しかし今度は彼が86歳とさすがに子どもを作るのに困難な年齢に達してしまいます。

 

デュナミスは夫の目を盗み、周辺部族の男と密通したのでしょうか・・・?

 

さてさて。いつにもまして長くなりました記事の最後に、②の東方風の少年にしっかとトガをつかまれている人物に、また触れさせていただきます。

 

彼は前23年~前21年にかけて、東方にいます。一説では、アウグゥトゥスが彼の甥マルケルスばかり優遇するのに嫌気が差し、レスボス島に隠居したとされています。けれども塩野先生がおっしゃるにそうではなく、アウグストゥスが東方世界の再編成のために、彼を派遣したとのことです。このアウグストゥスの最も頼りになる右腕は、この時期に東方各地を視察し、再編成の基盤を着々と固めていったそうです。

 

ボスポロス王国との接触があっても、おかしくないと思いませんか。

 

・・・・・・アグリッパのために書かせていただけば(私ごときが余計なこと)、前23年にマルケルスが病死し、ユリアは寡婦となりました。甥の死をひどく悲しみつつも、アウグストゥスは娘の次の婿候補を探さなくてはならず、アグリッパが候補に挙がりました。

当時アグリッパはマルケッラと結婚していましたが、ユリアを娶るために離婚することとなりました。

 

このマルケッラとの離婚と、ユリアとの結婚のあいだに、ね、ありえなくもない話かな、なんて――。

 

以上、古代ローマファンによるど素人の空想でした。くり返しになりますが、当てになさらないでくださいね。

 

 

さあ、書いてる時間があったら勉強しろや、マジで!!

 

 

・・・ところで、なんで私はこうした記事を書くのでしょうか。大学で歴史を専攻したわけでもなく高校世界史止まりの、ただの一素人、一ファンである私が、なぜボスポロス女王に目をつけるまでにマニアックになったのか。

 

まあ、本当の専門家やプロの方々からしたらマニアックでもなんでもないのでしょうけれども。

 

その件は、旅の思い出話が終わったら、たぶん書かせていただきます。